去年の6月16日から始めた「ゴミ拾い」が今日で200回目でした。
今まで、時々ブログでもゴミ拾いの様子を伝えてきました。
その時は「・・・日目」と書いていました。
しかし、最初の方は毎日やっていたのですが、ここのところは気が向いたらやっています。「・・・日目」と書くと毎日連続してやっているように思われる方もいるかもしれないと思い、「・・・回目」と書くことにしました。
「ゴミ拾い」は京都・高野川沿いで朝の散歩のついでにやっています。
相変わらずゴミがなくなることはありません。いつも何らかしらのゴミは落ちています。
200回ゴミ拾いをして、拾うゴミが多い時、少ない時、いろいろです。
多い時は、市から貰う、約30ℓくらいのボランティア用のゴミ袋が、ぱんぱんに二袋になるときもあります。
正確に測っているわけではありませんが、1回につき少なくとも平均500gのゴミを拾ったとしたら、200回で、
100kgのゴミを拾ったことになります。
「塵も積もれば山となる」は本当のことでした。体感しました。今まで拾ったゴミのことが走馬灯のようによみがえりました。よくこんだけのゴミを拾ったなと我ながら感心してます。
Aujourd’hui, c’était ma 200ème fois du ramassage des ordures sur la rivière de Takano. Je l’ai commencé le 16 juin 2020. Si j’estime que j’ai ramassé de 500 g d’ordures en moyenne par une fois, J’ai déjà ramassé 100 kg de déchets. C’est énorme !
ゴミは、数でいえば、「吸い殻」がダントツに多いです。いろんな銘柄のタバコが落ちています。多くの人がポイ捨てをしてるのだと思います。
「吸い殻」は道に落ちています。それ以外に、排水溝の塩ビ管の中、橋の下、ベンチの下に落ちています。
何回もゴミ拾いをしていたら、そのような「決まったポイ捨ポイント」があることに気づきます。「類は友を呼ぶ」ではないですが、一つ吸い殻があれば、次の吸い殻も呼ぶようです。「赤信号みんなで渡れば怖くない」的な感覚でしょうか?
他に、アルコール類の缶ビン、ペットボトル、弁当の空き箱、お菓子のパッケージ、マスクが目立ちます。
買い物袋に空き缶などをパンパンにつめてきちんと封をして、「ご丁寧に」捨ててあったこともあります。
時たま出会う捨ててある「使用済みのオムツ」には慣れません。何か事情があるのでしょうか?冬は凍ってて拾いやすかったですが、今は…。
いずれにせよ、道の真ん中にどうどうと「捨ててある」ことは少なく、どのゴミも、人が目につかないような場所に、隠すように捨ててあることがたいがいです。
ベンチの下に、「きちんと並べて捨ててあるアルコールの缶」、「中身もきれいに食べて、割りばしもきちんとおいて、蓋もちゃんとしめてあって、「ごちそうさま」という声が聞こえてきそうな、捨ててあるコンビニの弁当箱」を見た時は、唖然としました。きちんと並べる「気配り」はできても、「ゴミを捨てる」気配りはできないのかな?と。
きっと、ゴミを捨てる人は「罪悪感」があるのだと思います。「ゴミを捨てるのは悪いことって知ってるけど、今日だけは許して」みたいなことを思って捨ててる人もいると思います。
罪悪感って「自分は悪い人」って思う感情です。「罪悪感」は隠しておきたいものみたいです。だって、自分のことを「悪い人」って扱うことは、つらいと思います。「悪い人」って見られたくないと思います。少なくともそう思っている限り「幸せ」にはなれないと思います。だって、悪い人は罰を受けないといけませんから。幸せとは真逆の方向ですね。
ということは、ゴミを捨てる人も自分の「罪悪感」を隠して、「幸せ」になりたいのだと思います。
それなら、話は早いです。「自分のゴミは持ちかえったらいいだけ」です。
ただ、なぜそれだけのことができないのかは、僕には理解できません。
今日も高野川で、カルガモを見ました。コチドリもいました。きれいなお花もたくさん咲いていました。きれいな水が川には流れていました。
そんな美しい「高野川」が僕は好きです。
ゴミ拾いをすることで少しでも「美しい高野川」がより美しくあってくれたらいいなって思っています。
「ゴミ拾い」は、いつも感動をくれる高野川への僕の感謝の気持ちの表現のつもりです。
Si je ramasse des ordures sur la rivière, c’est pour exprimer mes remerciements à la belle rivière qui me donne toujours une émotion.
今、コロナで、フランス語ガイドの僕は仕事がなく、社会との接点をあまり持てない日々を過ごしています。そのことは、時に精神的にきつく感じます。「帰属欲求」が満たされていないのが原因の一つだと思います。
それは、「マズローの欲求5段階説」の第2段階「安全欲求」が満たされてない状態です。「マズローの欲求5段階説」の説明は、次のサイトが分かりやすいと思いました→マズローの欲求5段階説 |モチラボ (motivation-up.com)
「ゴミ拾い」をすることは「社会貢献」でもあり、僕が「社会の一員」という「帰属欲求」を満たしてくれることにつながっていると思います。そういう理由もあって、ゴミ拾いをしたあとは気持ちがいいです。
皆さんは「ゴミ」について何か思うことはありますか?
高野川にて。
【京都市でゴミ拾いを始めるために役立つ情報】
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こんにちは!
フランス語、すごいですね!
わたしが好きなブロガーさんたち
フランス語が得意な方が多いのは気のせいでは
なさそうです^ ^
恥ずかしながらわたし自身
ゴミの問題はSDGsが提唱されてから
意識するようになりました。
買い物の仕方も随分と変わりました。
燃えないものはなるべく買わない様にする、
(以前はお構いなしにプラスティックのものを買ってました)
モノは腐らせない、食品ロスは出さないようにする…などなど。
レジの袋問題はヨーロッパは何十年も前から有料にし、国民も意識しているのに対して日本はまだここ数年。
イタリアのメルカートは
わたしがよく行ってた頃、
数十年前からだいたい当時レジ袋約50円から100円!
日本のように数円なんてまだまだ甘いなぁと
思ってしまいます…
地元の人はその時から使い古したダンボールか袋でした。
良いところを見習っていきたいものですね^ ^
そして
コロナ前のような普遍的であった日常に
戻ってほしいですよね、本当に。
lupetta さん
こんばんは。コメントありがとうございます!
lupetta さんはイタリアにお住まいだったようですね。ということは、ヨーロッパやフランス語にも近いところにいたようですね。フランス語が得意なブロガーさんに出会うのも自然なことなのかもしれませんね。
フランス語褒めていただき嬉しいです!ネイティブみたいな自然なフランス語ではないかもしれませんが、好きで続けています♬
そうですよね、まず自分自身のゴミから僕も減らしたいって思っています。でもついつい自販機でペットボトルを買ってしまうことも多いです。その度ちょっと後ろめたい気にもなってしまいます。せめて、ちゃんと分別して捨てるようにしてます(あたりまえですよね!)。
日本も昔は、藤カゴとか使ってましたよね。イタリアでは段ボールや紙ぶくろを使う人が多いようですね。何だかいいですよね♪
食品ロスも問題になってますよね。
「少欲知足」の禅の精神が息づく日本。「もったいない」の精神が息づく日本。今の時代、その精神を今一度意識する必要があるかもしれませんね。たぶん、忘れている人も多いような気がするから…。
コロナ前の生活が戻ってきたらいいですよね。マスクもよく道に落ちていて、ゴミになってます。少なくとも「マスクゴミ」はなくなると思います。